ここまでの道のり

私について。

なんでASCPのMLSを目指しているのかも含め、ここまでの道のりを。。

 

検査の大学を出て、そのまま修士課程に進み、

卒業後は病院ではなく、外資系の検査機器メーカーに入る。

そこでアメリカとビジネスのお付き合いがあり、

超苦手だった英語とも向き合うことになりました。

 

メーカーでの仕事は出張も多く、忙しいながらもやりがいを感じていたのですが、

どうも体調が優れない。

ただの疲労ではなく、体の内からくる疲労感。

もともと体は強くない方だったので、体のキャパを超えて無理をしたんだと思うようにしたのですが…。

やりたい気持ちとは相反する体に悔しさを感じながら退職。

 

その次は、自宅から通いやすい小さな病院で臨床検査技師本来の仕事を始めました。

同僚にも恵まれて、患者さんと接することも楽しんで仕事をしていました。

収入はメーカー時代からガクンと下がったけど、夕方には家に帰れるし、

心と体にはこれで良かったんだと思っていました。

 

そんなある日、超音波を始めることになり、練習でまずは自分の甲状腺を見てみたら…

甲状腺乳頭癌が見つかりました。

命に別状はない癌だと分かっていても、「癌」って名前をおでこに刻印されたかのような衝撃がありました。

今までがん保険やお見合いなんて興味がなかったけど、

「あぁもう私はがん保険には入れないんだなぁ」とか、

「お見合いする時とか、こういうの言わなきゃいけないんだっけ?」

「手術したら首のド真ん中に大きな傷跡か…結婚も全部、人生を諦めよう…」など、

先の先までものすごくネガティブに考えて、

消えない病歴と傷に、自分がまるで悪いことをしたかのような扱いに感じたことを覚えています。

大げさですが、でも、それがリアルな患者の気持ちでした。

今までの体の疲れやすさは、これもひとつの原因だったのかもしれません。

それが昨年のことです。

 

がんが見つかって一番ショックな時から、入院・手術して普通の生活に戻るまで、

いつもアメリカから応援してくれたのが今の彼です。アメリカ人です。

文通相手で、手紙やメールを頻繁にやり取りしていた友達でした。

もうすぐ日本まで会いに来るという話が出ていた時だったので、

「会うのを取り止めでも、こんな私なんかもう相手にしなくても、恨みませんよ~」

という気持ちで診断名や今後やら全部連絡して、

「色々始まる前にさようなら異国の人~」と本気で思っていました。

彼は全部を知った後、「なんということだ!甲状腺についての医学文献を読み漁ってみたが、君の腫瘍は手術すれば命に別状はないんだ!特に日本の医療はなんたらかんたらで、○○病院は世界的にも甲状腺で有名だから大丈夫!」と

非常に冷静に励まし続けてくれ、その後本当に日本に来てくれました。

 

私も手術後にあちらへ行ってみたり、彼の家族とも会って一緒に過ごしてみたり、

会えない期間はSkypeとLINEで毎日連絡をとったり。。。

を繰り返して、

「1年の準備期間後、アメリカで一緒に住もう」

という話に至りました。

そこで、アメリカに行くにしても、私も仕事をしたいと思い、

やっぱり自分ができることは患者さんのために働くことではないかと考えたのです。

甲状腺乳頭癌は、「命は残してあげるから、その命で、この気持ちを忘れずに患者さんのために働きなさい」

というメッセージじゃないかと勝手に解釈しています。

 

それと、メーカー時代に世界各国の検査技師の病理染色手技を比較していたのですが、

これは贔屓目なく、本当に日本人の技術は素晴らしいのです。

結果を出すだけではなく、芸術の域に入ることを日常的にやっている。

世界でピカイチの技術を持っているのに、日本ではそれが待遇や収入に反映されていないのです。

しかも、日本人はおとなしい性格のためか(?)日本の検査技師の技術も世界ではまだあまり知られていないように感じます。

事実、ASCPの受験応募のページでも、国別に提出書類の指定があり、

同じアジアでも韓国やインドの欄はあるのに日本はないのです。

「その他参照」になってしまっているんです。

それだけ応募者数も少ないのでしょうか。。。

国連の職員応募について、日本からの応募が少ないと聞いたことがありますが。

 

なので、私は、恐れ多くも、日本の検査技師の待遇に一石を投じたいという思いと、

世界に日本人の検査技師の技術を知ってもらいたいという思いもあって、

まずはASCPに応募します。

経験も何もない人間が大それたことを申して大変恐縮ではありますが、

こういうことは若い時でなければ出来ないことだと思うので、

今から一歩ずつ挑戦したいと思います。

 

よろしくお願いします。